夜も更けた三咲町の山中、そこを全身傷だらけの女性がフラフラしながら歩いていた。

服はぼろぼろ、片腕は力なくただぶら下がっているだけ、閉じられた片眼からは血が滴り落ちている。

一見すると手ひどい暴行を受け、半死半生の末に逃げ出したようにも見える。

まあ、半分正解であるが半分間違いでもある。

確かに手ひどい暴行を受けた、ずたぼろにされてこうして逃げている。

しかし、これは一方的なものではなく、双方とも一応納得ずくの大ゲンカの産物だった。

女性自身は勝算も自信もあって行動であり、事実ほんの数時間前までは九割九分彼女の勝ちで動く事が無い筈だった。

だが、結果としては残り一分のイレギュラーによって勝敗の天秤は覆り、自分は敗北こうしてボロボロの姿で敗走している。

しかも止めとばかりに仕込んでくれた呪いのおかげで、朝までに三咲の地から離れないとならない。

でなければ自分は姿を変えられてしまうのだから。

「くそっ、有珠の奴、厄介な代物をあいつに教えおって」

口から毒を吐きながらその足は止まる事は無い。

だが、その足は口ほど力強くは無く、雪で滑り転びそうになる。

このまま地面に倒れ込むかのように思われたが、それを誰かが受け止めた。

「!」

「大丈夫ですか?橙子さん」

柔らかい口調と残された片目で確認した見慣れた黒マント。

「・・・お前か詠梨」

それに対し、助けられた女性・・・蒼崎橙子の方は何故か憎々しげな視線と感情を黒マントの人物に向けている。

「おやおや、せっかく助けたのに随分な反応だと思うのですが」

「黙れ、五体満足であればその場で叩き殺してやる所をこの程度にしているんだ。むしろ感謝してほしんだが」

肩をすくめるようにそう言う人物・・・文柄詠梨に毒を吐く。

「やれやれ、まあその位の元気があれば問題なさそうですね。立てますか?橙子さん」

「ふん、貴様に心配される必要もない。用が無ければそこをどけ、こっちは急いでいるんでな」

「そうは言ってもその身体では朝になってもこの山を越える事も出来ませんよ」

「っ・・・」

詠梨の言葉に思わず黙り込む橙子。

「・・・で、貴様はそれを言いに来たのか?」

「まさかそこまで私は暇ではありませんよ。一応橙子さんとは縁がありますのでお見送りをさせて頂きたいと思いまして」

「・・・」

その申し出にしばし思案していたようだったが、

「ただの見送りだけなら勝手にしろ。その代わりこちらも聞きたい事がある」

「ええ、特に構いませんよ、一人静かに暗い山道を歩くよりは楽しいでしょうから。では行きましょうか、お急ぎなんでしょ」

そう言って橙子の肩を貸して、山道を歩き始めた。









流石に半死半生の足よりは速く、あっという間に山を登り切り、下り始めていた。

「ここまで来れば橙子さんの足でも余裕ですね、それで橙子さん、お聞きしたい事とはなんでしょうか?」

と、ここまで無言であった詠梨が改めて口を開いた。

「白々しい、見当等ついているくせに」

「予想はしていますがそれば正しいとは限りませんから」

「その前に確認させろ、青子達は昨日、お前の教会に避難した、そうだな?」

「はい、青子や有珠さんとも縁がありますので傷の手当てもさせて頂きました」

「その中に青子と同年代の少年もいただろう」

「ああ、静希草十郎君ですね。ええ、彼も一緒に保護いたしました。何しろ彼は魔術の心得も無い一般人、そんな人物の保護も大切な仕事ですので」

「そうか、では何故彼をこちらに向かわせた?」

質問と言うよりは詰問、糾弾を思わせる程、橙子の声は怒りに満ちていた。

「彼には魔術を使える訳ではない、神秘を使いこなせる訳でもない、貴様が言ったようにただの一般人だ。そんな人間を何故わざわざ地獄に突き落とす様な行為をした」

それに対する詠梨の答えは予想していたのだろう、簡潔に、立札から水が流れる様に滑らかなものだった。

「何しろ彼が自分から行くと言いましたからね、そんな高潔な覚悟を止める意味が私に見い出す事が出来ませんでしたから」

「・・・上っ面の模範解答は止めろ。本音で話せ。何故向かわせた」

これ以上の戯言は聞きたくないとばかりにこれまで以上に声に怒りを込めて睨み付ける。

「・・・」

それに対して、無言で応じる黒衣の神父。

だが、その表情は痛い所を突かれて表情を歪めている・・・筈もなく、困ったような笑顔を浮かべているだけだった。

「私としては本音なのですが、信じて頂けないとはこれも不徳の致す所ですね・・・」

「何が不徳だ。お前の人間性を知っていれば当然だろう・・もっとはっきり言ってやろうか、貴様、気付いていただろう」

「気付いていたとは?」

その詠梨の問い掛けにこれ以上の問答は不要だとばかりに更に険しく睨み付ける。

数秒ほどで降参したのは神父の方だった。

「気付いていたと言うほどの事ではありません。強いて言えば私は彼を疑った、その程度です」

「疑った・・・だと?」

「はい、その様子だと貴女も疑わなかったようですね。ですが無理もありません、青子はもちろん、自身のものに異常な執着を見せる有珠さん、更にはシスター唯架までも疑わなかったのです。ああ、もしかしたら律架は薄々疑っていたかもしれませんが」

「能書きは良い、とっとと続けろ。貴様は何に対して疑っていた」

「全てです」

その回答に今度こそ橙子は絶句した。

「・・・全てだと?」

ようやくそう口を開いたのは沈黙が三、四周してからだった。

「はい、全てです。彼を、静希草十郎君を形作る全てに対してです。橙子さん貴女は彼の事をどれだけ知っていますか?」

「最初会った時に少し話してくれたよ。山から下りてその後青子や有珠にまで殺されかけその果てに監視の名目であの屋敷に住まわされたとな。ついでに言えばあの時私は彼を善良だが、紛れもない無能な部外者だと思っていたが本能では逃がす事無く直ぐに始末しろと告げていた」

結果としては本能の方が正しかった訳だがと告げた。

「そこで疑問を感じなかったのですか?」

対する神父の問いは静かな感情を感じさせない声だった。

「疑問だと?」

「やはり、そこから誰も疑問に感じる事は無いようですね」

「回りくどい言い方は止めろ、何に対する疑問をだ」

「簡単です、何故彼は山を下りたのか」

つい数時間前、本人に直接問うた質問を再び口にした。

「・・・」

思わず口を噤む橙子、そんな疑問詠梨が直接口にするまで考えた事すらなかった。

それほど草十郎はあそこに馴染んでいたのだから。

屋敷にも、そして都会にも。

「そう、彼はあまりにも順応性が高すぎるんです。文明から取り残された山から文明の先頭を行く都会(ここ)にやって来た。しかし、それに馴染む暇すら与えられる事無く今度は魔術と言う非文明の極みとも言えるものに巻き込まれ呑み込まれた。普通なら都会(文明)と魔術(非文明)、真逆の存在を同時に見せつけられれば、どちらかをありえないものとして存在すら否定して、もう片側に逃げ込んでもおかしくなかった。いえ、そうするのが普通のそして当然の反応です。何一つおかしくは無い。ですが彼は都会と言う文明も魔術と言う非文明もどちらも当然の様に受け入れ許容している。際立った、いえずば抜けた順応性としか言いようがありません・・・自我が無いとしか思えない程の」

自我が無い、その単語は橙子にあの光景を思い出させていた。

あと一歩で橙子の勝利が確定していたあの時突然乱入してきた草十郎は切り札であるベオを一回殺し、あまつさえその心をへし折ってしまった。

しかも、その為に自分が人として生きる為の全てを投げ出して。

それも一度は殺されかけ、監視の名目で同居の強要までされた、出会って一月も経たぬ赤の他人も同然であるはずの少女二人の為にだ。

青子と有珠の美貌にほだされた、そんな可能性も無いとは言わないが、それでもあの献身は度を越している。

そんな橙子を尻目に詠梨は更に言葉を紡ぐ、

「そこに疑問を持ってしまえば後は湯水の如く疑問が出てきました。何故過酷な環境で生きて来たのにあれほど人を受け入れる許容性を持っているのか、何故文明と程遠い生活をしてきたのに文明をたやすく受け入れられているのか?数え上げて行けばきりがありません。そして疑問をあげて行けば行くほど疑問は結論に姿を変えて行きました。外面の聖者の如き平穏だけで見て騙されてはならない。彼の内面は我々の予想をはるかに上回るほど、柔軟で強かなのか、もしくは私達には想像する事も出来ない怪物なのだと」

「・・・貴様と意見を同じとするのは腹が立つが認めざる負えん。確かに彼は平常なように見えてあまりにも偏り過ぎている。で、貴様が彼を行かせた理由はそれか?」

「はい、私個人の私情はともかく公人としては青子達の勝利の方が望ましい、それの何らかのきっかけとなればよし、なあならなければならないで次善策を考える、その程度の考えですよ。失敗の方がはるかに公算が高い賭けでしたが」

「ふん、確かに貴様の目論み通りきっかけになってくれたさ。私の敗北のきっかけにな」

実際草十郎の登場で計算通りだった全てが無残なまでにご破算になり、自分はぼろ負けを喫し、呪いまでかけられた上でこうして逃亡している。

「・・・橙子さんその様子だとかなり大きな事を彼はしたようですね」

不機嫌そうな橙子の様子を見てただ事ではないと思ったのか、最初は不思議そうな顔で次第にいつもの感情の篭らない笑顔で尋ねる。

「・・・はっ、その様子だと貴様も彼を過小評価していたみたいだな」

そう言って橙子は草十郎が乱入してからの事を話し始めた。

「・・・・・・」

これは予想外だったのだろう、目を丸くし本気で絶句していた。

それを見て僅かに溜飲を下した橙子はいつもの不敵な笑みを浮かべる。

「さすがに驚いたか」

「それは驚きますよ。幻獣どころか精霊の域にまで達する幻想種を神秘も魔術も用いず自身の研磨のみで討ち倒すとは・・・無事であるのなら是非とも私の所に来てほしいものです。彼なら機関に入るのも夢ではないでしょうし」

詠梨の言葉に先程までの笑顔から一転して心底不快げに眉を顰める。

「やめて置け、いくら信仰心は二の次で実力重視とは言え、あそこはリスクが大きすぎる」

橙子をしてリスクが大きすぎると言ったのも無理はない。

詠梨の言っていた機関とは、教会の教義から外れた人外を法ではなく力で存在諸共抹殺する為に教会が擁している代行者の中でも更に選りすぐりの精鋭と言う名の人間兵器達が跋扈する巣窟の事だ。

嘘か本当かは闇の中だが、眼の前の神父もまたその機関の一員としてその名を連ねていたと言う未確認情報もある。

(仮に真実だったとしても橙子は驚かないが)

確かに草十郎の実力であれば迎え入れられる可能性は大だが、橙子としては一度殺したにしても、一応気に入っている人物を今回巻き込まれた事態以上の生き地獄に落とすのは本意ではない。

それに

「何よりもそんな事をしてみろ、お前冗談抜きで青子と有珠に殺されるぞ」

時間こそ短いが青子、有珠の二人が口ではなんだかんだ言いながらも彼を受け入れているのは明らかな以上、草十郎を更なる闇に引き摺り込むのは彼自身の破滅を意味する。

別に詠梨が殺されようが、八つ裂きにされようが、死ぬよりも惨い末路を迎えようが、橙子に悼む気持ちなどは皆無、むしろそれを促したい位の気持ちなのだが、一応、昔のよしみもあるが故に最低限の忠告だけはする事にした。

そこは想定していなかったのか、それとも想定していても軽視していたのか、詠梨は改めて思案に暮れていたが、

「・・・確かに彼女達を敵に回すのは本意ではありませんね。それに唯架も彼をいたく気に入っていますし、無理を通せば私の方が不利ですね・・・仕方ありません、名残惜しい事この上ありませんが、機関へのスカウトの話は無かった事にしましょう」

無難な結論に達したようだった。

「そうしておけ、アイツらとこれまで通りの温い付き合いをしていくのならな」

「ご忠告痛み入ります人形師(ハイマスター)」

と、その一言が終わりの合図となったのか、橙子が詠梨から離れた。

「一応礼だけは言っておく。世話になったな。どうにかカエルにならずに脱出できそうだ」

「カエルですか?橙子さんでしたらカエルになっても魅力的だとは思いますが・・・」

「貴様、本気で言っているのか?それとも冗談か?」

「無論冗談ですよ。今までの行動と話から察するに橙子さんは、これからここに来ようとしたら呪いでカエルになってしまうのでしょう?でしたらこれでしばらくは橙子さんとはお会いできませんからね。最後に冗談を言っても罰が当たらないかと」

「お前・・・気付いていないようだから言わせてもらうが、ジョークのセンスとことん無いぞ」

「これはこれは手厳しい」

「はっ、これでも優しい方だ。ではな詠梨、今回は世話になった借りがある以上見逃してやるが、次に会った時はきっちり始末を付けてやる」

「そうですか私は楽しみにさせてもらいますよ。また貴女とお会いできるのを」

その言葉を最後に神父は背を向けて闇の中へと消えて行った。

「・・・」

それを無言で一瞥だけすると橙子もまた神父が消えた反対側に向かって歩き始める。

詠梨の助力で距離は稼げたにしても、まだ先は長くのんびり出来る程短くも無い。

「全く・・・ここで最後に顔を合わせた奴が一番合いたくない奴だとは・・・しかも奴に借りまで作るとは・・・最悪もここまで来ればいっそ清々しいな、くそっ・・・まあ過ぎた事はもう良い、まずは傷の手当をせねば。青子に報復をするにしても詠梨を始末するにしてもこの状態ではどうにもならん」

そうぼやきながら、橙子もまたその姿を闇に包まれる様に消えて行った。









後書き

久しぶりの短編は『魔法使いの夜』から決戦後の橙子と詠梨神父とのやり取りを想像して行わせていただきました。
昨年末に発売されたサウンドトラックを聞き久しぶりに本編を読み直し、そこから色々出て来た想像を形としました。
蛇足ですが、作中で神父が言っていた『機関』は書くまでも無いかと思いますが、埋葬機関です。

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